はじめに
はじめまして「非プログラマの理系博士」と申します.
博士と名乗っていますが博士課程1年です(10文字制限に引っかかるのです).
私,めでたいことにこの春から学振DC1に採択していただきまして.
生活が保証されたし,さあ研究を頑張るぞ!!
と思ってはいるのですが,1つ気になっていることがあります.
「就職どうすればいいんだ......泣」
私はあまりアカデミアに残りたいとは思っていないものでして.
仕事選びの時に以下の2つを重視したいと思います.
- 1日の勤務時間が9時間を超えないこと.
- 長期のまとまった休暇が得られること.
この2つ,日本の企業やアカデミア界隈では難しそうです.
もちろん,日本でもコロナによって在宅勤務が一気に普及したことや,働き方改革によって労働環境が改善されつつあることは理解しています.
もしかしたら有給を集中させて4週間のバカンスとか可能になるかもしれませんね!
......しかし,しかしですよ,もうじき就職する我々学生は改革の過渡期に入社するわけで.
自分が働きはじめた時に日本社会が労働者に優しくなっているかは未知数だと思いませんか?
それなら,自分が納得できる働き方を実現できる会社/組織を探し出す努力を惜しむべきではない!
こういう思いでこのブログをはじめました.
ブログタイトルの通り,最初はヨーロッパ(たまにアメリカ)に絞って情報収取をしようと思います.
やっぱ,バカンスは最高だよね!!!!!!笑
web上の情報(特に日本語)はプログラマー(あとバイオ系の人)の海外就職に大きく偏っており,なかなか自分のような非プログラマーが移住する記事は目にしません.
自分と同じような境遇の人に役立てると嬉しいです.
2月からGWまでの思い出 その1〜祖父の死〜
気づけばブログをサボって3ヶ月。
また日記みたいな雑記帳を書きたくなってきたので再開することにしたのはいいものの、やはりこの空白期間に何があったのか書かないわけにはいくまい。
この3ヶ月は私の人生の中でもターニングポイントになる出来事がいくつかあった。
今日から数日に分けて備忘録的にまとめておこうと思う。
今回は祖父が亡くなった時のことを書き留める。
2月10日の朝、起床と同時にスマホを見ると父と母からそれぞれラインがきていた。
「祖父危篤、すぐ帰れ」の一報である。
タイミングの悪いことに、大学事務からも「大事な手続きを忘れていたからすぐにサインしに来てくれ」とのメールがきていた。
バッグにスーツを突っ込んで原付で大学に向かう。
卒論の仕上げをしている後輩たちにエールを送る暇もなく、事務室で書類を処理。
執筆していた論文のデータをクラウドに移して大急ぎで駅に向かった。
僻地のキャンパスから駅まで原付、中央駅まで電車で30分、特急で地元の駅まで2時間半。
頼むから死んでくれるなよ......。
祖父に最後にあったのは晦日、病院とホームが一緒になっているような施設で面会した時であった。
数年前から体の衰弱が顕著であった祖父であるが、頭の方はしっかりしたもので、私が言うことは全て理解していたように思う。
確かに当時もここから劇的に良くなったりはしないだろうと思っていた。
なにせ祖父の病は不治の病、世にも奇妙な心の病「ものぐさ」だったからである。
生きようという意志がなかったのだ。
死にたいと思うわけではない。
ただ目的を持っていなかった。
祖父は真面目な人間で飲む打つ買うとは無縁。
いや、たまに飲んでいたけれど深酒をするような人ではなかった。
初孫の私を可愛がってくれる優しいおじいちゃんだった。
そんな祖父が弱っていったのは、長年連れ添った祖母が認知症を患い、家に一人きりになってからだろう。
私は祖母の様子がおかしくなり始めた頃にちょうどアメリカで留学していたため、認知症の進行していった様子は知る由もない。
どうも我が家は子供に対して親の苦労を隠しすぎるきらいがある。
一人で家で過ごす間、祖父は何を思っていたのだろうか?
10年前に自分の中華料理屋をたたみ、仕事もない中で何を楽しみにしていたのだろうか?
私は悪い孫だ。
あれだけ可愛がってもらいながら、世話になりながら、家族への連絡もろくにせず好きなように(といっても世間様からは白い目で見られるようなことはしていない)生きてきた。
祖父の寂しさにも気づいていながら、時々電話しようと思いつつ、ついぞ自分からかけることはなかった。
タブレットとかあげて写真をラインであげようかとも思った。
しかし何もしなかったのだ。
考えただけ。
良案はいくつも浮かんだが、結局何もしなかったのである。
つまり、祖父からすれば私はひたすら家族を顧みずに自分の欲望の赴くままにどこかにいってしまった「可愛かった孫」でしかなかったわけである。
......やはりこのまま死なれては困る。
最後に一言「ありがとう」と言いたい。
そんなことをぐるぐる考えているうちに地元の駅にたどり着いた。
すぐに父が迎えにきてくれた。
眠そうだ。
早朝4時に医者から連絡が入りそこからずっと看病していたとのことであった。
父も母も2月は仕事が立て込む時期でもある。
体力的にも精神的にもかなりきついのだろうと言うことがはっきり伝わってきた。
どうやら私がたどり着くまでの間に祖父の容体は少し良くなったらしい。
それでも私が呼ばれているのは父と祖父が事前に延命はしないと言うことを話し合っていたからだということだ。
つまり、今回の帰省の間に確実に祖父は死ぬ。
いや、死に目に会いに行くつもりで帰ってきたわけだから心の準備はできていたのだ。
それでも改めてはっきりと自覚するとなかなかに重い。
病室に入って見たのは人工呼吸器に顔が覆われ喉に痛々しい管が繋がった祖父の姿であった。
もう意識はないのではないのか......?
と思ったら祖父は私の方にゆっくり顔を向けてくれた。
看護師さん曰く、ちょうど意識が回復したばかりらしい。
この気を逃すまいと電車で考えていたあれこれを吐き出そうとして、謝罪と感謝の言葉を述べようとして、やめた。
いや、やめたというのは間違いだ。
何も言えなかったのだ。
だって生きてるし。
意識あるし。
生きてる相手に死人に対する懺悔みたいなことを言えるものか。
じゃあいつ言えばよかったんだ?
そんなの決まっている、元気な時に言うべきなのだ。
締め切りギリギリに駆け込みであれもこれもやろうと思ったって、相手は手いっぱいで受け入れてはもらえないのだ。
当たり前のことなのに、わかりきったことなのに。
とにかく手を握って「がんばったね」とか言ってみるものの、なんとも言えない後味の悪さが残る。
多分、いや絶対に祖父が欲しいのはこの言葉ではなく(こんな土壇場に欲しい言葉とかあるのかは今の僕にはわからないが)、私が伝えたい言葉もこれではない。
どうすればいいのだろうか?
なにかうまいやり方はないのか?
部屋の隅に下がって逡巡しているうちに祖父が父を呼びしきりにこう訴えかけ始めた。
「はよ家に帰ろうや」
この土壇場にきて何を言っているのか?
家に帰りたいならもっと積極的にリハビリなりをして体力をつけておかなければ。
呼吸器なしではすぐに死ぬような状態でそれは無茶だ。
そんな考えが頭をよぎったのち、なんとかして実現してあげられないかと考えて......。
やっぱり無理だなと諦めた。
すまない。
無理なものは無理なのである。
たとえそれが本当の意味で最後のお願いだとしても、やはり無理は通らないのである。
さっきから人生の当たり前を一つ一つ確認している気がする。
後悔先に立たず。欲しい時にないのが金と親。
親族の死に目というのは実に魂を揺さぶって来る。
(続きはまた明日)
アメリカで出会った悪友たちと4年ぶりに京都で再開した話
彼らは僕が最も成長し、最も悔しい思いをした時を共に過ごした仲間。
週末に京都に行ってきました。
金曜の夜に新幹線に飛び乗り、日曜の夕方に帰る。
宿泊はホステル(2泊で2600円)。
計画を立てたのは一週間前、フランス人でKOにMBA取りに来てる悪友が京都で共通の友人と遊ぶと聞いたその時でした。
ホテルの予約と移動手段の確保まで一時間といったところでしょうか。
便利な世の中です。
まぁ京都の観光はほどほどに、再開の喜びを分かち合い、ひたすら飲んで笑ってました。
日本人の友人の大半が働き始めている中、このフランス人は今でも学生をしている貴重な存在であったりします。
彼らと会話をしていると必然的にアメリカ留学時代を思い出すわけで。
あの時の僕は全く英語が話せないのに語学留学ではない留学をして、間違いなくその年の留学生で一番喋れない人間として過ごしていました。
周囲の学生が(勉学以外の)楽しいこと(不道徳なことって最高だよね)に精をだして、若いエネルギーを発散する様を指を咥えて見ていることしかできなかった。
毎日が屈辱の連続で、どうしてこんなところに来てしまったのだろうと想わない日はなかった。
それでも、こいつらを筆頭とする友人の心優しさに救われてなんとか生き延びることができました。
この恩は一生忘れないと思います。
何があっても友人でいよう。
そう強く思いました。
こんなふざけた日記ブログにえらい真面目でおセンチな文章を書いてしまい、自分でも困惑しています。
本当に書きたかったのは、彼らと笑ってまた会えるように、俺は元気でやっているんだと知ってもらえるように、研究成果をできるだけ派手に産み出したいなと思ったってことです。
日頃は「まぁ生きていければいいや」と踏ん張らず、柳のように生きていこうなどと思っていることが多いけど、珍しく火がついてしまいました。
成果にとらわれると、結果が出ない時にメンタルが痛みやすいけれど 。
成果には運が絡んでいることをよく理解できている今の私に必要なのは、ただがむしゃらにやることなのかなぁ。
そう思うようになりました。
やっぱり持つべきものは悪友。
俺やお前らがアメリカでした情けない失敗、掻いた恥全部笑って、また旨い酒をやりましょう。
安○先生、バスケが……したいです……
そう思いながら今日も夜までラボであれこれやってました。
天才ですから。
運動不足なんですよ。
体が弱りきってます。
これでも高校生まではアホみたいな自転車通学と毎日の部活で身体仕上がっていたほうなので、鏡に映る今の貧弱さに嫌気がさしているのです。
そこで、なんとなくバスケをしたいなぁと思って社会人サークルを探してみたわけです。
ところが、ほとんどのチームが経験者募集とのこと。
私はミニバス経験者だけれど、もう10年以上コートから離れてますし、そもそも5分も走れません。
なんとかやれる場所探したいです。
これが終われば一件落着って思ってる時にだいたい次の仕事がやってくる
従って完全な休みというものは死ぬまで訪れないのではなかろうか。
論文の修正が終わり、英文校正にかけました。
以前に利用した時の校正者が僕の研究内容に疎く、ディスカッションのところが全く違う意味に変えられていて二度手間だったので、今回は先輩方からオススメの校正者を教えていただきました。
しばらくあの論文を触らなくて良いと思うと心理的にかなり楽です。
今週はあと9時間以内に論文一本の要約を提出し、16時間以内に学会の発表内容要約を2本仕上げたのち、24時間以内に中間試問のスライドを作ればOK.
日程込み合いすぎで泣けてきますが、体調管理はうまくできているのでなんとかなりそうです。
やっぱ無理やり野菜食って毎日30分以上歩いていれば風邪は引かないでいける。
筋肉量とか心肺機能とか考えたくないくらいに落ちてるけど、ご愛嬌という事にしときます。
このデスマーチが終わったら......5月の学振までにもう一本論文書きたいので実験祭りですかね......。
美人で凛々しいお姉さんの太ももに頭預けて寝たい。
〆切との追いかけっこにいつも負けてる
で、でも走りきってるから許して(許されない)
ここ一週間の睡眠リズムがおかしくなっております。
論文の書き直し、中間試問のための準備、学会提出のアブストラクト、新規実験……
僕の能力ではちょっと厳しい量でしたね。
まあ論文はあとひと押しでサブミットまでいける感じだし、試問は面倒なだけでゆるゆるなのでオッケー。
問題は新規に始めた実験の方。
詳細は(たとえ誰も読んでいないブログでも)かけませんが、グラフェンの転写がかなり難しいです。
でも、この実験は少なく見積もっても論文2つは出せるので、博士課程に入る前に卒業にリーチかけられるといいなぁと思っております。
明日は後輩と遊ぶ楽しい日なので、出発までは試料作成に勤しもうかなぁと。
早起きして歩けばセンター試験を受けてる未来の後輩たちも見れるし。
個人的に赤マフラーをつけてるブレザーの女の子を応援しています笑
ラボ畜だって花金したいっ!
研究室の有志とイタリアンレストランで豪遊(2000円)してきた。
金曜日午後6時、ラボでは卒論や中間試問あるいはジャーナル論文に追われ疲弊しきった男たちが虚ろな目で画面を見つめていた。
「終わらねぇ、帰りてぇ、眠てぇ」口から漏れ出るおきまりのセリフ。
誰もが進捗を求めながら、実験を始めるわけでもキーボードを叩くわけでもない不毛な時間。
澱みきった空気を切り裂いたあの一言を発したのは一体誰だったのだろうか?
「飯、食いに行きません?」
その瞬間、ゾンビたちの目に光が宿った。
レストランが決まるまで3分。
研究室を出るまで5分。
人が最も早く動くとき、それは嫌な事から目をそらし欲望へつま先を向ける瞬間なのだ。
かくして男たちはうまいピザをシェアしながら、自撮りと恋話に花を咲かせたのであった。
みんなの心は一つ、明日(土曜日)もラボで会おうね!
ズットもだよ!
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やっぱみんなで飯食いに行くと士気が上がって良いですね。
年長者として定期的に開催しようと思いました。