2月からGWまでの思い出 その1〜祖父の死〜

気づけばブログをサボって3ヶ月。

また日記みたいな雑記帳を書きたくなってきたので再開することにしたのはいいものの、やはりこの空白期間に何があったのか書かないわけにはいくまい。

この3ヶ月は私の人生の中でもターニングポイントになる出来事がいくつかあった。

今日から数日に分けて備忘録的にまとめておこうと思う。

 

今回は祖父が亡くなった時のことを書き留める。

2月10日の朝、起床と同時にスマホを見ると父と母からそれぞれラインがきていた。

「祖父危篤、すぐ帰れ」の一報である。

タイミングの悪いことに、大学事務からも「大事な手続きを忘れていたからすぐにサインしに来てくれ」とのメールがきていた。

バッグにスーツを突っ込んで原付で大学に向かう。

卒論の仕上げをしている後輩たちにエールを送る暇もなく、事務室で書類を処理。

執筆していた論文のデータをクラウドに移して大急ぎで駅に向かった。

僻地のキャンパスから駅まで原付、中央駅まで電車で30分、特急で地元の駅まで2時間半。

頼むから死んでくれるなよ......。

 

祖父に最後にあったのは晦日、病院とホームが一緒になっているような施設で面会した時であった。

数年前から体の衰弱が顕著であった祖父であるが、頭の方はしっかりしたもので、私が言うことは全て理解していたように思う。

確かに当時もここから劇的に良くなったりはしないだろうと思っていた。

なにせ祖父の病は不治の病、世にも奇妙な心の病「ものぐさ」だったからである。

生きようという意志がなかったのだ。

死にたいと思うわけではない。

ただ目的を持っていなかった。

祖父は真面目な人間で飲む打つ買うとは無縁。

いや、たまに飲んでいたけれど深酒をするような人ではなかった。

初孫の私を可愛がってくれる優しいおじいちゃんだった。

そんな祖父が弱っていったのは、長年連れ添った祖母が認知症を患い、家に一人きりになってからだろう。

私は祖母の様子がおかしくなり始めた頃にちょうどアメリカで留学していたため、認知症の進行していった様子は知る由もない。

どうも我が家は子供に対して親の苦労を隠しすぎるきらいがある。

一人で家で過ごす間、祖父は何を思っていたのだろうか?

10年前に自分の中華料理屋をたたみ、仕事もない中で何を楽しみにしていたのだろうか?

私は悪い孫だ。

あれだけ可愛がってもらいながら、世話になりながら、家族への連絡もろくにせず好きなように(といっても世間様からは白い目で見られるようなことはしていない)生きてきた。

祖父の寂しさにも気づいていながら、時々電話しようと思いつつ、ついぞ自分からかけることはなかった。

タブレットとかあげて写真をラインであげようかとも思った。

しかし何もしなかったのだ。

考えただけ。

良案はいくつも浮かんだが、結局何もしなかったのである。

つまり、祖父からすれば私はひたすら家族を顧みずに自分の欲望の赴くままにどこかにいってしまった「可愛かった孫」でしかなかったわけである。

 

......やはりこのまま死なれては困る。

最後に一言「ありがとう」と言いたい。

そんなことをぐるぐる考えているうちに地元の駅にたどり着いた。

すぐに父が迎えにきてくれた。

眠そうだ。

早朝4時に医者から連絡が入りそこからずっと看病していたとのことであった。

父も母も2月は仕事が立て込む時期でもある。

体力的にも精神的にもかなりきついのだろうと言うことがはっきり伝わってきた。

どうやら私がたどり着くまでの間に祖父の容体は少し良くなったらしい。

それでも私が呼ばれているのは父と祖父が事前に延命はしないと言うことを話し合っていたからだということだ。

つまり、今回の帰省の間に確実に祖父は死ぬ。

いや、死に目に会いに行くつもりで帰ってきたわけだから心の準備はできていたのだ。

それでも改めてはっきりと自覚するとなかなかに重い。

 

病室に入って見たのは人工呼吸器に顔が覆われ喉に痛々しい管が繋がった祖父の姿であった。

もう意識はないのではないのか......?

と思ったら祖父は私の方にゆっくり顔を向けてくれた。

看護師さん曰く、ちょうど意識が回復したばかりらしい。

この気を逃すまいと電車で考えていたあれこれを吐き出そうとして、謝罪と感謝の言葉を述べようとして、やめた。

いや、やめたというのは間違いだ。

何も言えなかったのだ。

だって生きてるし。

意識あるし。

生きてる相手に死人に対する懺悔みたいなことを言えるものか。

じゃあいつ言えばよかったんだ?

そんなの決まっている、元気な時に言うべきなのだ。

締め切りギリギリに駆け込みであれもこれもやろうと思ったって、相手は手いっぱいで受け入れてはもらえないのだ。

当たり前のことなのに、わかりきったことなのに。

とにかく手を握って「がんばったね」とか言ってみるものの、なんとも言えない後味の悪さが残る。

多分、いや絶対に祖父が欲しいのはこの言葉ではなく(こんな土壇場に欲しい言葉とかあるのかは今の僕にはわからないが)、私が伝えたい言葉もこれではない。

どうすればいいのだろうか?

なにかうまいやり方はないのか?

 

部屋の隅に下がって逡巡しているうちに祖父が父を呼びしきりにこう訴えかけ始めた。

「はよ家に帰ろうや」

この土壇場にきて何を言っているのか?

家に帰りたいならもっと積極的にリハビリなりをして体力をつけておかなければ。

呼吸器なしではすぐに死ぬような状態でそれは無茶だ。

そんな考えが頭をよぎったのち、なんとかして実現してあげられないかと考えて......。

やっぱり無理だなと諦めた。

すまない。

無理なものは無理なのである。

たとえそれが本当の意味で最後のお願いだとしても、やはり無理は通らないのである。

さっきから人生の当たり前を一つ一つ確認している気がする。

後悔先に立たず。欲しい時にないのが金と親。

親族の死に目というのは実に魂を揺さぶって来る。

 

(続きはまた明日)